楠本イネに関する覚書

以下は、いつもの写真や鳥や虫の話しとは一切関係ない話です。
最近、司馬遼太郎の「花神」を読みながら考えたことの覚書です。

 「花神」は、後の大村益次郎こと村田蔵六の話しで、NHKの大河ドラマの原作となったものです。蔵六は、幕末の蘭学者で、後に明治維新の官軍の総司令官となり、維新直後に暗殺されました。
 蔵六の愛人として、楠本イネが登場します。イネは、長崎、出島のオランダ商館の医官として来日し、西洋医学を広めたシーボルトが、遊女であったお滝との間に残した娘で、日本初の洋方女医といわれています。
 一方、楠本イネの生涯については、吉村昭が「ふぉん・しいほるとの娘」という本を書いています。この本の中で、イネと蔵六との関係は、蘭語の講義を受けたことと暗殺者に襲われたあと蔵六の看護にあたりその死を看取ったことぐらいしかなく、当然、愛人関係としては描かれていません。

 興味を持った所の一つに、それぞれの作品が表された時期があります。「花神」のあとがきは昭和46年となっており、昭和52年の大河ドラマとなりました。一方、「ふぉん・しいほるとの娘」は昭和50年6月から昭和52年10月にかけて連載されています。つまり、「ふぉん・しいほるとの娘」の後半約1/3が書かれた時期は、大河ドラマの「花神」と重なっています。「ふぉん・しいほるとの娘」の後ろから1/3というと、イネが岡山にいた時代にあたります。そして、「花神」における蔵六とイネの出会いの場は、岡山となっています。したがって、物語上の年代もほぼ平行して話しが進んだことになります。すなわち、「花神」がもっとも世間の注目を浴びていた時期に、吉村は「花神」とはまったく違うイネ像を提供していたことになりす。当時、両方を見ていた人がどのような感想を持ったのか気になります。

 「歴史の影絵」という、吉村の歴史小説執筆における取材に関するエッセイ集があります。その中に、「ふぉん・しいほるとの娘」において重要な役割を果たしたある史料についての話しがある。それは、イネの娘である山脇高子の証言で、長崎県立博物館に長い間外部の目に触れさせること無く収蔵されていたものです。イネは生涯独身でしたが、岡山の医師、石井宗謙との間の望まれぬ子として、娘高子がいました。高子の証言は、自身の出生の秘密を含めた母イネと高子自身の生涯について語ったものです。そのあまりにも悲劇的な告白に、その記録者はその感想として次のようなことを書いてます。「イネ、高子両人に深く同情し、その秘密を永遠に忘却してしまいたい。しかし、後年、両人が誤解されることがあるかも知れぬゆえ記録しておく」と。そして、記録者の意を汲んだ図書館側は外部の目に触れさせること無く保管してきた。それを、イネについて小説を書こうとしている吉村に、史実に忠実なものを書くようにと、はじめて見せたのです。そして、「ふぉん・しいほるとの娘」発表後、なおイネと高子について誤解した書物が数多く発表されるのを見た吉村は、記録者の「誤解された時のために記録する」という意を受けて、高子の談話を公表するにいたります。
 吉村は、エッセイの中で、イネに関する誤解とは宗謙との関係についてとしている。しかし、もし司馬が書いたイネが蔵六の愛人であるいう話が完全な創作であるとするならば、そのことがあたかも史実のごとく流布している現状こそが最大の誤解である、と私は思うのです。 

コメント

  1. mepo より:

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    むしみずさん、こんにちは。「花神」関連の記事でコメントをいただいたmepoと申します。ご訪問がすっかり遅くなってしまいました。
    とても興味深い記事を読ませていただきました。
    イネと蔵六の関係については、史実として証拠はないのですね。ここらへんが歴史小説の怖いところですね。歴史が小説の形になっていると、ものすごく入りやすく、身近に感じます。でも、それが「フィクションである」ということを忘れてはいけませんね。、「ふぉん・しいほるとの娘」はぜひ読んでみたいと思っています。ご紹介、ありがとうございました。

  2. むしみず より:

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    >mepoさま

    ご訪問ありがとうございます。
    歴史小説も、フィクションを入れるのは作者の裁量という立場から、鴎外以来の"歴史其侭"までいろいろですね。その中で、司馬さんの、作中で作者が資料や取材譚を語る手法は、変な説得力を持ちすぎているような気がします。
    友人が、最近幕末物に凝ってるというので、一番のお勧めとして「ふぉん・しいほるとの娘」をプレゼントしたのです。友人は「花神」を読んだところでイネに興味を持っていたと言い、ついで他の友人に向って「イネって人はね、大村益次郎の愛人でね」と説明しだしたのです。そのことが、かなり衝撃的で、そう言わしめる「花神」がどんなものかと読んでいたしだいです。
    「ふぉん・しいほるとの娘」は、幕末から明治を生きたお滝、お稲、高子の母娘三代記として読み応えがあると思います。

  3. 高遠 より:

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     私のブログへようこそ。どんな人かと思い、貴殿のブログを拝見しました。私はカメラの腕がさっぱりなので、きれいな写真を撮られる人が羨ましいです。花と蝶など、きれいな写真をたくさん撮られていますね。花だけなら撮るのは難しくないでしょうが、そこに生き物を配置するとなると、タイミングが難しいんでしょうね。
     ところで次ぎは吉村昭について書くつもりだったので、上の文章は参考になりました。「歴史の影絵」については知らなかったので、図書館に探しに行きます。
     勝手ながらこのブログをリンクさせていただきます。差し支えがあるようなら、ご連絡ください。

  4. むしみず より:

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    >高遠さま

    コメントありがとうございます。
    写真はまだまだ素人です。花の写真は動かない分、誤魔化しがきかずセンスを問われるようで、私には難しいです。

    吉村昭の歴史小説の記事、楽しみにしています。

  5. www より:

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    「花神」における蔵六とイネの関係について

    F教授の「恋だったと思います」という言葉から着想を得たと、作品冒頭に
    明記されてます。「史実ではないよ」という宣言です。

    こんなことを明記してあるような「親切」な小説は、少数派でしょう。

  6. むしみず より:

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    >wwwさま

    冒頭部分は読み直してみましたが、作者が大村益次郎について考えるようになったきっかけを述べているだけですね。

    藤野教授は何らかの根拠をもとに「恋だったと思います」という考えに至ったということですから、史実ではないという宣言にはならないのでは?

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